日下のこと
Dr.マダラーノフ
[「くさか」の意味]
古代史の中で「くさか」はくりかえし現われる。おそらく「くさか」の意味を読み解くことはもうひとつの日本史をあとづけることになると常々思ってきた。まず、日下の「くさか」は春日の「かすが」とともに太陽崇拝に関連づけられる。そして、この太陽崇拝には藤原氏と秦氏が深く関わっている。そして太陽神が天照大御神(あまてらすおおみかみ)に収斂する過程で、この神を皇統に一元化する是非をめぐって氏族間にかなりな反目や離反があったものと思われる。その意味で生駒山の西山麓一帯の河内の地は通うたびに新しい発見があり、興味のつきないものがある。[神武紀の「くさか」 - 古事記 -]
くさかの地はまず、古事記の中つ巻の冒頭、神武東征のくだりにあらわれる。波速の渡を経て、青雲の白肩の津に泊(は)てたまひき。この時に、登美の長須泥毘古(ながすねひこ)、軍(いくさ)を興して、待ち向へて戦ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。かれ其処を名づけて盾津といふ。今に日下の蓼津といふ。ここに登美毘古と戦ひたまひし時、五瀬の命、御手に登美毘古が痛矢串(いたやぐし)を負はしき。かれここに詔(の)りたまはく、「吾は是れ日の御子として、日に向ひて戦ふことふさはず、かれ賎奴(やっこ)が痛手を負ひつ、今よは行き廻(めぐ)りて、日を背(そびら)に負ひて撃たむ」と、期(ちぎ)りたまひて、南の方より廻り幸(もう)でます時に、血沼(ちぬ)の海に到りて、その御手の血を洗ひたまひ、かれ血沼の海といふ。
[神武紀の「くさか」 - 日本書紀 -]
同じ事件を日本書紀では神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと=神武)即位前紀戊午年のこととしてさらに詳しく伝えている。皇軍は兵(つはもの)をととのへて、徒歩で龍田(今でいえば亀越道)へ行きそこから大和に入ろうとしたが、道が狭くかつ険しかったので行くことが出来なかった。そこで還って生駒山をこえて大和に入ろうとした。が、それを聞いた長髄彦(ながすねびこ)「天神の子等の来たのは、我が国を奪おうとしているに違いない」と言ってただちに兵を起こして、孔舎衞坂をさえぎって、ともに合い戦ふ。そのとき流矢(いたやぐし)が神武の兄の五瀬命の肱脛(ひじはぎ)に当たって皇師(みいくさ)は進み戦うことができなかった。天皇は憂いて、神き策(あやしきはかりごと)を心の中に思いめぐらして、「今、我れは日神子孫(ひのかみのうみのこ)にして、日に向かひて虜(あた)を征(うつ)は、これ天道(あめのみち)に逆(さか)れり。若(し)かじ、退き還りて弱きことを示して、神祇(あまつやしろくにつやしろ)を禮祭(ゐやびいは)ひて、背に日神の威(みいきおひ)を負ひたてまつりて、影(みかげ)のまにまに壓(おそひ)躡(ふ)みなむには。かくのごとくせば、かって刃に血ぬらずして、虜(あた)必ず自づからに敗れなむ」とのたまふ。
みな申さく、「然なり」とまうす。
くさえ坂古戦場石碑そこで神武軍は草香浜へと退きここで盾を立てて武勇を奮い立たせ雄たけびをしたのでその地を蓼津(たでつ)というとの地名由来の説明があり、五瀬命は紀の国の竈山にさしかかったときくだんの矢の傷がもとでみまかったと続く。
この痛矢串をトリカブトを用いた矢毒であったとして矢毒利用の民族の研究からユーラシアから極東にいたる古代史を再構成した博覧強記の化学者・一戸良行という人物がいるが、今は触れない。
「天津神、国津神を祭ってその神格としての太陽の後押しを得て向かえば戦わずして勝てたのにな」というと皆も「その通りだ」と言ったというくだりには日下という土地が伝えてきた太陽にまつわる聖域伝承ぬきには成立しない。
[「古事記」・「日本書紀」のこと]
古事記は日本書紀に先立つこと8年前の和銅5年(712)正月に成立をみた。和銅4年9月1日元明天皇の勅命により太安万呂に採録を命じ、たった4ヶ月で完成奏上したと伝えられる。学界の常識では天武天皇13年(684)頃、稗田阿礼を相手に仕事をはじめ、ある程度のところまでこぎつけていたらしく、太安万呂はそれに割注や説明を付す作業をしたとされる。
一方、元明天皇の和銅7年(714)2月、紀清人と三宅藤麻呂に命じ編纂をはじめ、6年後の元正天皇の養老4年(720)に完成を見たとされる日本書紀も、天武朝の10年(681)頃着手されたがうまく行かずいったん廃絶、その後も持統天皇が継承し、ようやく日の目を見た悲願の書といわれ、藤原氏の関与があったとされる。
多分に中国を意識した漢文の日本書紀を正式の国史、それに対して日本化された漢文で和文もまじる古事記は私的な氏族の系譜だとされる。
しかし、私にはこの神話から皇統へとつなげる二つの体系には大王家を支えてきた諸氏族の正統化への意欲が大局的には二つの勢力となったことの反映のように思われる。そして春日から日下にまつわる原初の太陽神崇拝も、アマテラスを皇祖神に祭りあげる過程で有力氏族の藤原氏や殖産興産民の秦氏が暗躍し、祭祀権をめぐって水面下のはげしい抗争があったのではないか。万世一系を標榜するシャーマン国家の成立には太陽神の一元化は不可避のものであったろうし、その下部組織である神社の栄枯盛衰もそれに順ずるものであっただろう。昔から古事記は親新羅的、日本書紀は親百済的な発想で編纂されたと巷では伝えられてきたが、記紀の事件の取捨選択をみるとなるほどと思わせられるふしもある。
[雄略紀の「くさか」]
日下が登場するもうひとつ見逃せない記事が日本書紀には見えず、古事記の雄略紀にのみ登場する。この雄略天皇(大長谷若建命・おおはつせわかたけのみこと)は倭の五王の武に比定され、初期の王権確立に力あった大王で、その傍若無人ぶりと英雄色を好むたぐいの伝承は記紀ともに豊富だ。その雄略天皇の求婚の記事である。
はじめ、大后<大日下の妹・若日下部王、書紀には幡梭(はたひ)皇女>日下にいましけるとき、日下の直越(ただごえ)の道より、河内の国に出でましき。
ここに山の上に登りまして、国内を見放(みさ)けたまひしかば、堅魚木(かつおぎ)をあげて屋(や)を作れる家あり。天皇その家に問わしめたまひしく、
「その堅魚木を上げて作れる舎は誰の家ぞ」と問いたまひしかば、答えて曰さく、「志幾(しき)の大県主が家なり」と曰しき。ここに天皇詔(の)りたまはく、
「奴や、おのが家を大王(おおきみ)の御舎(みやかた)に似せて造れり」とのたまひて、すなわち人を遣わして、その家を焼かしめたまふ時に、その大県主、懼(お)じ畏(かしこ)みて、ひれふ(稽首)して曰さく「奴にあれば、奴ながら覚(さと)らずて、過ち作れるが、いと畏きこと」と申しき。かれ稽首(のみ)の御幣(みまい)の物を献る。白き犬に布をかけて、鈴を著けて、おのが族(やから)、名は腰佩(こしはき)といふ人に犬の縄を取らしめて献上りき。かれその火を著くることを止めたまひき。すなはちその若日下部の王の御許にいでまして、その犬を賜ひ入れて、詔らしめたまはく、「この物は、今日道に得つる奇(めずら)しき物なり。かれ妻問ひの物」といひて賜ひ入れき。
ここに若日下部の王、天皇に奏さしめたまはく、「日に背きていでますこと、いと恐(かしこ)し。かれ、おのれ直(ただ)に参上(まゐのぼ)りて仕えまつらむ」とまをさしめたまひき。
イメージの日下直越え[「日に背きて」とは]
ここでは傍若無人の雄略天皇が娘の「求愛はよろこんでうけますが、日に背いてお出でになったのはおそろしいことです。私からあなたのもとに改めて参上しますので今日はおひきとりください」との言葉にすんなりとしたがって「いつかこの腕に抱いて寝ることができるのだろうか」と女々しく歌を残して還ったというから面白い。ただ、「日に背きて出でますこと」と娘がとがめたのは志幾の大県主のささげものの白い布を見ていったのか、雄略の聖域を侵犯しての進入ルートの涜神性を指したのかはこのくだりからは判明できない。若日下部の王とは子が無かったが、葛城氏の中心人物であった円大臣の娘・韓比賣(からひめ)との間には白髪命と新羅を匂わせる名をもつ皇子が誕生し、御名代部として白髪部をもうけたりしている一方、積極外交をとり新羅への進攻をいくたびも企てたこの天皇であれば、白い布をかけた犬には注意を要する。「日に背きて」とはその分捕り品の結納の品を見て「お前さん因縁をつける相手を間違ったのではございませんか?」という意味にもとれそうだ。この志幾の大県主の「しき」も初期の歴代大王家が皇后を娶ることを約していた三輪山周辺の実体不詳の有力豪族「しき」と同名なのも気がかりだ。この事件が日本書紀にないのも気になる。そこで考えられることは雄略の頃、この日下一帯に勢力を張ってきた集団は天皇家にとってうとましい存在になりつつあったのではなかったか。
また、この雄略天皇はしきりに大和平野の西方の山塊、王家の海への道を塞ぐ諸氏族に干渉をくりかえしている。そしてこの古事記の求愛物語はかくも牧歌的なものでなかったようだ。記紀ともにその真相がいかなるものであったかを匂わせる記事をその前後に残している。
[雄略紀の頃の時代的雰囲気]
詳細は省くが、雄略の父の安康天皇は若日下部王の兄の大日下王(大草香王と表記)を殺し、雄略天皇に妹の若日下部王をめとらせ、妻の中蒂姫(なかしひめ)を妃にし皇后とした。しかし、中蒂姫と大日下王の間に生まれた子である眉輪王(当時7才)は安康天皇を殺し、韓ヒメの父の円大臣のもとに逃げ込んだところで雄略天皇が押しかけ、円大臣の「葛城の所領と娘の韓ひめを捧げる」という申し出を無視して眉輪王ともども焼き殺して葛城氏をほろぼした。そして結局、その韓ひめも妃に迎えたのだった。ほほえましいどころか、とても普通の神経では生き抜くことができないような日々であったことがこのわずか数行の記述からも感じとっていただけると思う。
かくして日下は初期の王権にとって葛城同様、非常に微妙な土地柄であったことがよくおわかりいただけたと思う。
[日下・春日ラインの浮上]
生駒山西山麓の河内は日下を起点に、北から南に春日神社、春日稲荷神社、丹波神社、石切劔箭神社、そして藤原氏の氏神を祭る枚岡神社が並んでいる。日下、春日ラインは、中央への権力集中が強化される畿内にあって、それぞれ太陽神信仰をめぐる古代氏族の命運を賭けた争奪戦があったと考えてよかろう。
日下の春日神社
(続く)