みどりを読む(4)
法橋 和彦
この蔵原に三歳上の従兄がいた。のちに詩人、短編作家となる熊本同郷の蔵原伸二郎(本名=惟賢=これかた。1899 - 1965)である。彼は慶応の英文科にすすむが、ロシア文学に心酔した最初の世代のひとりとなった。惟人のすすめで彼もまた東京外語の夜学に通ってロシア語の勉強に専念した時期をもつ。東京で再会したふたりはロシア文学に夢を託す青春にめぐまれた。
惟人の『詩人セルゲイ・エセーニンの死』(初出誌末尾に1926年1月11日と記す)はのちのち南宋書院版、改造社版、中央公論社版等の『芸術論』に再録された。伸二郎はいずれかの版で惟人の評論を読んだと思われる。惟人に刺激されて伸二郎にも『エセーニンについて』の一文がある。それはつぎのように書きだされている。
「セルゲイ・エセーニンがイサドラ・ダンカンとの恋に破れて自殺したと云ふ報知を新聞で見て僕は吃驚した。その頃僕は従弟惟人君と共にエセーニンが好きだったからである。然し、日本での彼の自殺の報知はあまりにロマンチックな好奇心に満たされてゐた。これについて、恐しき真実を伝へたのは、当時モスクワに在留してゐて共に一つの時代を生きてゐた蔵原惟人のみであった」と。
エセーニンの「若い死の原因について」、伸二郎は惟人の言葉を信用した。「惟人君はエセーニンの個人的発展とロシア革命との関係について、その距離について巧妙に述べた後で彼の死をつぎのやうに断定してゐる」と惟人の見解を紹介している。
「彼はロシアの野を愛し、それを歌った。まことに彼はロシア田園の詩人であった。しかし彼は新しい社会主義的農村を理解せんとして得なかった。そして古きものの亡ぶるを嘆きつつそれと共に彼は死んで行ったのである」と。
伸二郎は惟人の意見に同意しつつ、さらにアレクセイ・トルストイのエセーニン論の一部をも訳述してつけくわえる労を惜しまなかった。
「エセーニンなる名は本質的にロシア的である。人は彼の名に、豊饒な野の収獲、秋の祭礼を意味する、一つの異教的な語源を感覚する」と、等々。
伸二郎のエセー『エセーニンについて』は1940年9月3日、当時大阪ビルの四階にあった「ぐろりあ・そさえて」から刊行された随筆集『風物記』にはじめて収録された。「ぐろりあ・そさえて」というのは保田与重郎が「日本浪漫派」廃刊後、神道思想普及の趣旨継続の目的で経営するサロン兼出版社である。岩波書店の「広辞苑」を編纂した新村出博士もその設立時の有力な発起人のひとりで、上京の機会に『風物記』の出版を祝いに立ち寄られたことなど、保田は戦後二十年をへて、その出版当時の模様を回顧している。
この『風物記』(四六版442ページ)の装釘と挿絵(板画、倭画、錦絵)を受けもつのが棟方志功である。志功は野性味あふれる三十数点の力作をこの一冊の随筆集に投じた。あとにもさきにもこれほど棟方色が偉容をそなえた刊本は稀であろう。発行人の保田と伸二郎と志功の三人は「そさえて」のなかでも思想的、芸術的、人間的にもっとも親しい間柄であった。
言うまでもなく保田は天皇を神御一人者とあがめ、その御稜威(みいつ)を世界に広布せんとする狂信的な美学者であった。その保田にエセーニン論があろうなどと誰が想像できようか。しかしその保田が「コギト」第百号記念のために長大な『セルゲイ・エセーニンの死』(1940・10)を書いているのである。その動機をかれはこう告げている。
「惟人はロシア革命派の立場でロシアを見た」が、「私は日本人としての立場でロシア・インテリゲンチャを眺めた」と。つづけて「惟人はエセーニンの死を、ロシア革命の発展と詩人の思想との乖離にあるとし、そのことを巧みに説いてゐる。・・・惟人の文章は良い文章である」と認めつつも、エセーニンの辞世の詩にふれ、神風連等、憂国攘夷の志士たちの辞世歌を念頭において、「我国の詩人の場合は、すべて神ながらの詩心の形で最後の表現は示された」と対比することによって、「我国では詩の形而上学は志と結ばれた形で特殊な美学を作ってゐた」ことの確認につとめた。
だがその保田にもかって大高時代にはロシア革命に惹かれ、レーニンを讃美する青春があったのだ。彼はロシア革命を擁護する短歌制作から国粋美学の道を志し、「日本浪漫派」を拠点として異形の思想家へと成長をとげることになる。したがって保田のエセーニンが惟人とも伸二郎ともまたことなる視点から論じられてもなんら不思議はない。だがここで忘れてならぬのは、保田のエセーニン論の出発点が伸二郎を媒介として、一面識も持たぬ惟人が十四年も昔に書いた評論をふまえていることである。
保田はまず伸二郎のエセーニン論を読んだ日のことをつぎのように特記している。
「蔵原伸二郎の『風物記』を読んでゐると、『エセーニンについて』といふ文章にゆきあたった。・・・この事件の「恐しき真実」をつたへた蔵原惟人の文章が引用されてゐた。・・・私は惟人の『芸術論』を戸棚の奥からひき出して、その一夜は、この本のあちこちをよんでゐた。
惟人の『芸術論』は昭和7年12月に上梓されたものである。今読んでゐると、大そう懸命な書き方だが、それには子供っぽいところも多い。しかし規模の大きい、粗い情熱には、今の世相に稀なものがあった。・・・」と。
保田は無条件に社会主義制度を優位とする惟人の唯物史観的方法論にたいして、「神州人の生活論理」と「我らの血の中に伝はる神」を観念軸にたてた。その上で「動乱期の美学に於て、志―民族ないし伝統に似たいのちを抽象」するという目的意識にそってエセーニンの死を問うのである。
保田はこの日本にも「エセーニンのやうな詩人も出るかもしれないが、たぶんそのときは、我国は日本ゆゑ別の形で出るだらう」と考える。彼が芥川龍之介の死(1927)をエセーニンの死と峻別したのは言うまでもない。保田はエセーニンの死をつぎのように結ぶのである。
「詩人としてのエセーニンの外面的の不幸と云へるものは、彼の個性の所産でなく、ロシアといふ伝統と血統の荷った運命の不幸であった。それは宿命である」と。保田のこの宿命予定説は日本至上主義(その「伝統と血統」)の立場からするファッショ的決定論にほかならない。
保田はそのことを別の形にかえてその所信をこうも述べている。「日本のことばと、西洋のことばとをつなぐ日本の橋のやうな仕事の中から、私は却って日本の土着のものが、世界的といふ形で出るのではないかと思ふ」と。おそらく伸二郎も志功も、いちばん若い保田のこうした考え方をじぶんたちの芸術活動の磁力として大切にしていたにちがいあるまい。「日本の橋」、「日本の土着のもの」といった言葉が魔力をもつのである。彼はこうした言葉によって日本語と日本民族との間の神秘的な関係を強調したかったのだ。
保田はこうした日本中心主義の論理と倫理を手妻にとって惟人のエセーニン論の弱点を攻撃した。それは惟人の思想のいわゆる「子供っぽさ」にたいする批判として展開された。
「時代は急速に変化しつつあった。さうしてエセーニンのやうな、田園最後の詩人を虐殺し、旧インテリゲンチャ最後の詩人は、彼らの属した層のもった文明の進歩を願った良心のために自滅せねばならなかった。そのことについて、惟人は、さういふ個人的な悲劇を超克するためには、唯物史観を以って武装することである、といふ処世訓を書いたのである。これは道学者流の処世訓に他ならない。彼がエセーニンの死の中で描いたことはすべて倫理より下な処世訓のものであった」と。
つづけて保田はソヴェートの体制と日本の新体制運動を同尺のものとして並列させながらつぎのような予言的危惧をも表明したのである。
「私はエセーニンの死を、詩人の内面から考へて、感ずるものが多かった。我国の新体制の運動が真正面に進むなら、悲劇は無数の方々に起こってもよいと思ふ。私はそれよりも真正面に進まない時に起こる悲劇が怖れられる」と。
みてきたように、エセーニンの死の波紋は戦前戦中の日本(1926〜40)をくさびのように衝撃してきた。若き日の惟人がエセーニンの詩に発見した青(ないし緑)の悲劇は、国粋主義で結ばれた伸二郎、志功、保田与重郎のそれぞれにつよいインパクトをあたえたことは想像するにかたくない。かれらはエセーニンの詩に棲みついた青や緑について再説はしなかった。それだけに惟人の指摘した悲劇の色はめいめいの心にふかく沈着したにちがいない。それはあの色である。大手拓次が「青は希望のはなれるかたち」とよんだあの青が1930年代のシンボルではなかったかとわたしはひそかに思っている。保田からその「子供っぽさ」を批判された惟人は、その頃すでに治安維持法違反で天皇の獄(1932〜1940)につながれていた。手足も口も?がれていたのである。
わたしは1950年代の後半から60年代のはじめ、おそまきの青春を早稲田でおくっていた。その頃、ロシア・シンボリズム詩の研究者、黒田辰男を介して、蔵原惟人と会う機会にめぐまれた。おそらくわたしたちが蔵原さんから教えをうけたさいごの世代であろう。蔵原さんはものしずかな大人(たいじん)だった。いつもにこやかに泰然と話をされた。話はどれも重厚だつた。ときに話題が深刻でなくはない方向にそれても、それはよく噛み砕かれてしまっていて、どこにも気持のたかぶりや気どりの色など出てくる場所がないかのようだった。蔵原さんの話しぶりはいつも淡々としたユーモアで活かされていた。私は青春の終わりに蔵原さんと出会い、蔵原さんとはいくどか小旅行をするほど親しくしていただいた。
いまその頃のことを思いだすと、蔵原さんとはなんのつながりもないのだが、筒井康隆がまだ駈け出し以前に書いていた他愛もない話がうかんでくる。それには奇妙な緑がふんだんに使われていた。たとえば康隆は同人誌<NULL>7号(1962.7)に『姉妹』というショート・ショートを書いている。ちょっとした冗談がもとで幼い弟を牛にしてしまう話だった。姉は驚いて牛になった弟をつれて医者に診てもらうのだが、もちろん元へもどらない。康隆はこのファンタジック・ストーリをこう結んでいた。
「初診料を払って、わたしたちは通りへ出た。太陽の光が大通りのポプラ並木にきらきら輝いて跳ねていた。牛の背の白いところが、薄い緑にいろどられ、首すじをしっかりと掴んでいるわたしの手も緑に染まった」と。
その頃の康隆はどういうわけか、不気味な緑をおどろおどろしくより過激にエスカレートさせていくのだった。たとえばこんな描写が『幻想の未来』(宇宙人、75 - 81号、1964・1〜7)の一節にでてくる。
「・・・洞窟の奥の薄暗がりに横たわった彼女は、彼が息をつめて見ている前で血だまり中にのたうちながら次つぎと五匹の緑色の子どもを生んだ。彼は叫び声をたてることもできず瘧(おこ)りのようにガクガクと身体全体を顫わせ続けながら、その凄惨な様子を凝視した。」
60年代のぼくにこうした緑の記憶をうえつけたのは、やはりその頃はじめて読んだ蔵原さんの『詩人セルゲイ・エセーニンの死』の影響にちがいない。そういえばこの夏、青森のねぶた祭をテレビでみていると、棟方志功生誕百年を祝う山車がしきりに目についた。志功は青森土着の色として緑を多用していた画家である。彼はこの緑で国際的な評価をえた。この滅びの色を愛用して保田の「日本の橋」にこたえることのできた志功は小男だったが、よほど強運な男であったにちがいない。 第一部 了。つづく