みどりを読む(3)
法橋 和彦
じつにエセーニンは色の言葉によって色のない言葉を行間に色づける達人だった。彼はこの手法を自然のなかから学びとった。
もっとも初期の作品をひとつあげる。むろん無題にして無名、エセーニン二十一歳の偶成詩である。
赤い夕べの思い出に道はふけった、
表からナナカマドの茂みに霧がおりる。
百姓小屋が老婆のように歯のかけた敷居で
かぐわしい静寂をゆっくり噛んでいる。秋の冷気はやさしくおだやかにもやい、
カラスムギをとりいれた中庭へしのびよる。
硝子の青みをすかして黄色い髪の男の子が
コブマルガラスの遊戯に目をかがやかす。
煙突をとり巻くように、物置小舎のひさし屋根の上で
バラ色のペチカからでた緑の残骸が光る。
誰も居ぬのに薄い唇をした風が
夜中に消えたひとの噂をささやく。もう誰かがのこぎり葉やコガネ色の草を
靴底でふみしだき林の中へ踏み入ることもない。
長い尾をひくような吐息がくぐもるように消えると、
渋面をつくるフクロウのくちばしにキスをしている。宵闇は濃さをまし、家畜小屋にはやすらぎとまどろみ。
白い道がすべりやすい水溜りをみつけると、
麦わらがていねいに敷かれ、
牝牛たちの口からうなづくように安堵がもれる。
(1916)ここで命ある主人公たちは、すべて人間以外の自然である。それは田舎道であり、ナナカマドの茂みであり、百姓小屋、物置小舎、家畜小屋、ペチカと緑の灰であり、風や草、フクロウやカラス、そして牝牛たちである。
黄色い髪の男の子は詩人にとってすでに過去の記憶の残像でしかない。語るべき人はいずくへか去り、その既視感を風がつたえる。このおだやかで限りなく静かな田園風景詩に、エセーニン生涯にわたる内的危機の陰影(かげ)がさしている、すくなくともその危機を誘引する悲劇の源泉がここにある、といっても過言ではない。だが人ははたして人は信じようか。それほどこの詩の完成度は高いのである。
これは完璧な形式美をそなえた一糸みだれぬ四行五連の詩である。リフム(fMfM)の交替韻もリトム(f=6脚、M=5脚)の弱強格(ヤムブ)も正確無比というほかない。この完全な形式美に対応するのが下線で示した七種の色彩美である。そのうえ、これらの色はその前後にかくされているものたちの色をも引きだしているのだ。
「赤い(=美しい)夕べ」はナナカマドの葉末を流れる霧の色を、歪んだ「硝子の青み」と「黄色い髪」はコブマルガラスの黒を、「バラ色のペチカ」と「緑の残骸(はい)」(зола зеленая)は朽ちかけた物置小舎のひさし屋根の色を、そして「白い道」は牝牛たちの「安堵」の色を。だがそればかりではない。
重要なのは現在から過去へのタイム・スリップを独自の色彩感覚で開示する技法であろう。ここでエセーニンは前人未踏の色づかいの腕をみせている。たとえば目前の「緑の残骸」(燃えつきた薪の燠灰)は昔ながらの「ルリ色のペチカ」の対比色として、また第一連の「赤い夕べ」への期待は第五連の「白い道」の回想によって閉じる。そしてその前景に「黄色い髪の少年」がすわっている。少年は詩人の分身として幻のごとく過去から浮上するのだった。
これによって理解されるように、この無題詩はたんなる牧歌(イディーリア)でなく、まさにその正反対の望郷詩としての悲哀を色濃くたたえざるをえなかった。いうまでもなくその中心色は緑である。このエセーニンの緑もまた滅びの色として使われていることに注目すべきである。
エセーニンは十七歳でこの村を去り、ついにこの村をはなれる距離と時間をながびかせるばかりの人生を送った。上の詩は応召衛生兵として勤務中、プーシキンゆかりのツァールスコエ・セローで書かれた。
ロシア革命ののちにイマジニストを宣言(1919)、アメリカからソビエトへきた舞踊家イサドラ・ダンカンとの出会いののちにそのイマジニストをも廃し(1921)、ダンカンとのヨーロッパからアメリカへの旅(1922)では、なぜかアメリカへの嫌悪感をつのらせた。1925年9月、レフ・トルストイの孫娘と結婚後まもなく、その年の暮れに遺稿となる訣別の短詩を血書したのち、レニングラードのホテル、アングレテールの一室で夜半、縊死をとげる。三十歳でエセーニンはその多感な人生を閉じた。
晩年の若きエセーニンはトルストイの孫娘との結婚をひかえたさいごの年の八月に「人生はまやかし、そればかりか/ときには喜色満面で嘘を飾りたてる」と書いた。かれは心身ともに疲労しきっていた。だが「嘘をかざりたてる」いかなる虚色とも妥協しなかった。かれはつねにいつわりの喜色を拒む姿勢をくずさなかった。「まやかし」(обман)がいかに魅惑的で(чарующий)であろうと、かれは人生のまことを追いもとめ、ついに道化の視線で現実の事物と正対する道をえらんだのである。
キノコが大地の道化の華であるように、詩人もまた人生の道化であらねばならぬ。もしこれを天の配剤とするならば、詩人の自殺は人生の道化を廃業する宣言にほかならない。「この人生の中に死は新しいことではない / しかし生きることは勿論、より新しいことではない」エセーニンはこの言葉で人生を閉じた。これがさいごの道化の言葉となった。
エセーニン死の悲報を直接モスクワの夕刊で読んだひとりの日本人がいた。蔵原惟人二十三歳である。惟人はその後の報道にも注意をはらったが、「彼の若い死の原因については何事も語られていなかった。・・・その原因は未だに謎に包まれている」と、帰国後まもなく「都新聞」に寄せた『詩人セルゲイ・エセーニンの死』(1926.2.9〜13)でのべている。
蔵原はエセーニンの死を解くために彼の生涯をその詩作品に即して丹念に追求した。蔵原がこの仕事にこめたエセーニンへの想いは、いま読みかえしても胸うたれるところが多い。いうまでもなく蔵原のこの評論は日本における学術的なエセーニン研究の嚆矢でもあった。なかでも蔵原がエセーニンの色彩感覚に注目して悲劇の源泉をたどる清新な批評精神には注目すべきであろう。
エセーニンの初期詩作の特徴については彼はこう書いている。エセーニンは「多くの憂鬱な詩人と同じように青い色を好んだ。<碧色の野>、<碧色の空>、<青い夕暮れ>、<青い森>、<空色の谿>は彼の好んで歌ったところである。<この青みの中には死すとも惜しくはない>とも、歌っている。彼はロシアの田園のいたるところにこの碧色を見た。そしてこの憂鬱な色の中にあるロシアを狂気のように愛したのである」と。
だが、蔵原がここで指摘する碧色や青は<синь>か<синий>、あるいは<голубой>を転記した訳語で、問題の緑(зелень、зеленый)ではない。しかし、蔵原はけっして緑を見のがしたわけではなかった。エセーニン、1919年の作、無題の四行詩第一連にまず彼は注目した。わが魂はみ空を慕ってゐる
彼女はこの野の住人ではない
私は愛する 樹々の梢に
緑の火が顫えるその時を
(Oгонь зеленый шевелится)蔵原はこの緑をエセーニンの「詩に憂鬱な色彩を深める」色として認識した。蔵原によればこの緑は一個の思想として「<この世ならぬ小屋>、<この世ならぬ野>、<この世ならぬ村>といったような言葉」を誘引するものとして捕捉されている。さらにつぎの詩の引用は直接エセーニンの死の解明に通じる問題の緑として掲げられもしたのである。
そしてまた父の家に帰り
他人の喜びもて慰められつつ
緑の夕暮 窓の下で
(В зеленый вечер под окном)
自分の袖に首を吊るのだ
(На рукаве своем повешусь.)
1915―1916エセーニンにおいて緑(зелень)はみずから姿を消す希求とはやくから結びつく詩は、それはエセーニン十九歳、1914年の詩の一節に初見される。「愛する故郷よ!・・・・私はできるものなら身を消してしまいたい / 百の鐘をうちならすおまえのふかい緑のなかへ(В зеленях твоих стозвонных.)」と。
エセーニンは「いかに彼が走ろうとあの昔の世界は帰って来ない」ことを「よく知っている。しかも彼はこの新しい時代と和睦することが出来ない」と蔵原はみぬいた。「恋も夢も彼を慰めなかった」のである。残るのは「美しいがしかも淋しいあきらめの歌」ばかりだった。そして最後を蔵原はこう結ぶのだった。
「ロシア現代第一の詩人としてのセルゲイ・エセーニンの死は惜しんでも余りある。しかし歴史の大いなる流れの上から見れば、それはただ偉大なる革命のもたらした悲劇の一つに過ぎない。彼の運命は彼の属していた階級―ロシア・インテリゲンチャの運命にほかならない」と。
蔵原のエセーニン論は蔵原じしんの運命をも変えた。彼はこれによってプロレタリア文学の若き理論家としてその地歩を内外にかためはじめたのである。