河野滋子人形展にて

Dr.マダラーノフ

 



ギャラリー コクトー
2003年12月2日(火)〜12月14火(日)

 この春の個展以来しばらく充電期に入ると思われた彼女が、ケルト研究家の武部好伸氏との出会いを得て一挙に帯電し、創出した作品群を披露しますとの案内をもらい師走の京都へ出向いてみた。

 古都はようやく秋のよそおいをはじめたばかりで風もなく暖かかった。ギャラリー・コクトーは黄落期に入ってはなやぐ御苑の杜(もり)のはずれにあり、とても蠱惑的な異空間がぽっかりと口を開けていた。

 人形はおしゃべりすると言うが、彼女の作品はそのほとんどが寡黙である。また、人形作品はどうしても感情移入してしまうところがあるが、彼女の作品群にはそれを拒んでいるところがある。その「寡黙さ」と「他者性」が彼女の作品世界の異質な魅力となっている。今春の作品展ではそのことがとても印象に残った。そして今回、ケルトの新作とあいまってその花の季節にただすれ違っただけの旧知のペルソナたちにふたたび巡りあえたことはわたしにとっては予期せぬことであっただけにひとしおのよろこびであった。

 前回もっとも印象的だった「溶ける音」は、赤さびた甲冑からぬきんでた武器をもたぬ白い腕(かいな)と白い顔に光のないふたつの瞳がならぶだけのいまにもくず折れそうな危うい美をたたえた作品で、今回、延々と続く内なる戦いに倦み疲れた様子をより深めて立ちつくしていた。この胸像は彼女の作品群の中でもずばぬけた存在感を放っている。「乾いた音」は春の招待カードに添えられた作品と実際の展示品とは顔がすげかわっており試行の跡がうかがわれたが、今回の「奏」大と名づけられた作品でようやく様式的にも完成をみたように思われた。また居並ぶ一連の「奏」作品の中では、1点のみ角をもたぬ女性像があり、心に残った。

 ここでは、大地母神やアルテミスを彷彿させる多乳のいきものたちは影をひそめ、水棲生物が陸上へはいあがる黎明期の地球の歴史の中でももっとも劇的な時代の肺魚たちを模した「水の智恵者」の作品I、II、ほかにとってかわり、しきりにまばたきしていた。それらの作品が足元を回遊する中をさまざまな時の交錯する朝のなぎさを歩むように作品から作品へと移ろいゆけば、おのずとわたしの心の中に或る感情がむっくりと頭をもたげてくる。それは鼓膜をつくざくような静寂(しじま)のなせるわざか、あるいは人形たちの発するオーラのせいかは不明だが、この感情こそがおそらく河野滋子の表現する世界全体との共振作用なのかもしれない。
あらたに加わったケルト作品の中では「メロウ」という人魚像が群を抜いていた。フルラホーンはこれから繰り返し登場することになりそうなキャラクターだが、「ニーニアン」はやや未消化のように感じた。

 作家というものはその折々の表現行為の節目に必ず自身の内面の現在を残すものだが、今春のそれはまぎれもなく「溶ける音」。そして初冬の今回は「リャナンシー」であろうとなぜか思った。たおやかな女性の立像で彼女の作品にはめずらしく「希望」と題するのがふさわしいようにさえ感じたものだ。

 画廊を出て馥郁たる思いにとらわれる個展は数少ないが、彼女の個展はいまだ裏切られたことがない。ヨーロッパの古層を覆うケルト文明は、さながらキノコの見えざる菌糸体のごとくさまざまな局面でつかの間キノコを噴出させるが、そのアンダーグラウンドの実体は余りに巨大かつ深遠でいまだ深い闇に閉ざされたままである。ケルト・・・。おそらくこのテーマはキノコ同様、ともすればちっぽけな個性など呑み込んでしまいかねない底知れぬものを孕んでいるが、すでに彼女にとってパンドラの函は開けられてしまったようだ。

 深く暗いケルトの森へ続く小径はおそらくらせん形をとりながら混沌へと下降していくことになるだろうが、武部氏同様、いよいよ私にとって目の離せない作家となってきたことも事実だ。(了)


「乾いた音」


「やさしい風」

 


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