「ティモス」この厄介なもの
Dr.マダラーノフ
前章(「これからのキノコ趣味世界」)では、キノコ趣味世界をつきつめれば「自身の青春性の問題」と「差別の問題」に収斂されるとのべましたが差別の問題はもっとも厄介な自身の内なる差別と制度としての差別があると考えます。
[制度としての差別の問題]
リンネは「自然の体系」を編み上げるにあたり、植物の花の部分を性器ととらえ、この着想に陶酔するあまり、その当時花がないとされたイチジクやシダ、そして身近な生き物だが根も葉もなくひときわ異質であったキノコなどを、とりあえず隠花植物、すなわち植物の下位のクラスの生き物として下等植物のグループにおさめました。また、菌類学者たちも近年、糸状菌で有性生殖器官(=キノコ)の認められない菌類を不完全菌類というグループにおさめました。彼らは口をそろえて生物分類における高等や下等という概念は決して優劣を表現するものではないと言います。しかし、制度としてキノコに与えられた下等や不完全という言葉は、その源義をはなれて社会通念により、劣ったものというイメージを付与され次第に固定観念となっていったのです。これは江戸期にはいって幕藩体制強化のもとに固定化された身分制度の中の非人、賎民と同じく、制度として固定化された差別といえましょう。このゆえなき差別制度は、政治や教育の力で長い時間をかければ解決できるとされています。しかし、多くの人たちの努力にもかかわらず解決されたはずの差別の制度はそのことの中にひそむ小さな矛盾から新たな差別の制度が次々と生まれてきます。人為的な制度としての差別の問題でさえこうですから、人が人として生きることの中に含まれる差別意識はもっと根源的な意味での文化でしか克服できません。
[内なる差別の問題]
人はただその存在を認められることでは満足できず、他よりすぐれたものとして認められてはじめて自身の存在を認められたと感じる悲しい性をもっています。そのため、ただ生きているだけでは満足できず、たえず他より優れたものとしてみとめられたいという思いが「生きる」ということの中にはセットとして組み込まれています。したがって、生を意識して一生懸命生きれば生きるほど差別の壁は高く堅固になっていきます。この差別意識の元型とも言うべき、他者から自己を峻別していく情熱はギリシャ時代にすでに知られており、プラトンはそれを「ティモス」と名づけています。
[聖戦という発想・科学探求の精神的ルーツ]
皮肉なことに、この感情は多神教土壌の中での原始キリスト教という一神教の形成に甚大な貢献を果たし、人と人とが殺しあう戦争にも聖なる戦いがあり、善であるとの考え方を強化してきました。それは神の子供たちが宿る教会の利益を守る戦いとして正当化されてきたのです。ですから、大航海時代からはじまるヨーロッパの侵略思想や、科学の発展に寄与した博物学という名の略奪行為は、キリスト教の布教活動、世界の隅々にまであまねく貫徹された全能の神の意志の証明という隠れ蓑をまとって行われたことは心に留めておく必要があります。しかし侵略された新世界やアジアの側には多神教世界が温存されていましたし、とくにアジア大陸の最果ての島国・日本は日本海という天然の堀と万世二系とも三系ともいうべき多頭統治方式(真菌類のヘテロタリズム<共役核現象>に酷似した複核体制)を採用してきたことで国家存亡の危機をその都度かろうじてかわし、結果的に国家理念としての万世一系を現代まで保ってきました。だからといって天皇制度が万能であるとは思いませんし、差別の根幹にかかわるところではやはり多くの問題群が潜んでいると私は考えています。日本の近代化が、キリスト教をモデルにし天皇を頂点とする神道の国家政策化すなわち一神教化したことは明白で、「天皇は神にしませば」という復古主義がわが国の近代化推進の原動力になったことは言わずもがなのことです。以来、「西欧に追いつき追い越せ」という臣民のティモスをあおる形でアジアの盟主たる道を突き進んでいきました。
[知識人たちの限界と文学の果たした役割]
そんな時代にわが国の知識人たちは、西欧一神教世界の同じ論理構造しかもちえないマルクス主義の呪縛から抜け出ることができず、制度としてはピラミッド型社会の同じものを求めながらそのピラミッドを逆さにすることで抵抗しようとしたのですから、未成熟な労働者を頂点とする逆三角形社会の構図は不安定きわまりなく、やはり臣民らの強きを欲する「ティモス」をあらゆる手段を講じてかきたてる国家の奔流のごとき流れの中では、総崩れは時間の問題であったと言わねばなりますまい。
昨今のコンピューターのゼロ・ワン発想による粗雑だが超合理的な世界認識に支えられてこの一神教型ピラミッドの支配体制は支配統治の形としては究極の、かつ最強のシステムとなり、いまだこれを超えるシステム理論は開発されていません。
しかし、そんな中から近代化への軋みのような形で宮澤賢治の「でくのぼう思想」が生まれ、一向宗の究極の人間像である妙好人思想の再評価など、主に宗教界や近代文学者の虚構表現の中に、ティモスに翻弄され満身創痍になりながらも、競い合う世界からいちぬけていこうとした生き方をすすめる教えが散見されたことも事実です。
文学が「婦女子の玩弄物」と呼ばれながらも、富国強兵へ急傾斜する社会の中で決定的な抵抗の形を表出しつづけたことは、現在のような文学非在の時代にはいくら強調しても強調しすぎるということは決してないでしょう。現代では文学のような個々人の心に多様な可能性を温存せよと訴えかけるスローだけれども確実に届く言葉で考えるメディアがほとんどすべて破壊されてしまっています。自身の言葉で考えることを忘れた大人たちに育てられた子供たちやその孫たちは、一体何を基準に物事を考え判断していくのでしょうか。
[「ティモス」のあしらいの歴史]
永久平和がつかの間実感された世紀末でしたが、21世紀になってまもない現在の世界を一瞥しても、国家間では民族の名誉に賭けての血で血を洗う戦いは地域的な規模でも世界的な規模でも激化の方向に向かっています。このパワー・ゲームの負の連鎖を平和共存へと少しずつ変更を加えていくためには個人レベルでのティモスと集団レベルでのティモスを峻別し、しかるのちに個々人の内なる「ティモス」を可能なかぎり抑えていくことを善とするような思想、すなわち圧倒的な力に蹂躙されつつも対抗せず、しかも決して同化もせずに自身のティモスを無化していった人たちの葛藤の歴史に検討を加え、新しいエチカ(倫理)として打ち出す必要があると考えます。それは、脱西欧化という形をとったわが国の戦時下におけるマルクス主義者の転向の問題やかくれキリシタンの秘められた生活の中に、あるいは占領治下におけるクレオール化現象の動向に、また、たえずらせん運動に還元される多神教土壌のアジア的なものの中に糸口があるように思われます。
[ヘソクラ・メディアの存在証明]
このことはティモスを至上命令とする人間の本性や自然性にあらがうという大きな矛盾を孕んでいますが、かってそれぞれのうちなる欲望を追求することが神の意志に叶うことであり、人間の自然性であるとして肥大化してきた資本主義が今世紀に入ってその生産過程を自ら空洞化し、弱者を徹底的に叩きつぶす新しい帝国主義的様相を帯びてきたことで一気にその矛盾を噴出させ自己崩壊へと向かいはじめていますので、今や絶滅へ向かう恐竜に乗り続けるか、いちぬけるかは。困難度において同じで、その意味では個人に立ち還ってティモスにあおられてここまでやってきた自分を見直す好機であるともいえましょう。ヘテロソフィアというローカルなメディアは、そんな未曾有の転換期にある現下の個々人のきわめて個性的な生の軌跡を記録しつづけることで存在証明を果たしたいと考えます。
[「ティモス」と折り合いをつけることは可能か]
「ティモス」・・・、このきわめて厄介なものを消し去ることは人間としての死を意味するほど重いものですが、良寛ら在野に身をおいた日本独特の求道者たちの系譜をたどってみるとなんとかこの激情とぎりぎりのところで折り合いをつけていくことも個人レベルでは可能であるように思えてきます。「無名性」というキノコの旗印のもとで、そうした「ティモス」を徹底自覚し、それとの格闘を表現につなげていく自立した個々人たちのゆるやかな連帯の輪をひろげていきましょう。そのときはじめて、ヘテロソフィアのホームページは弱者の側に立った真に新しいメディアとなることでしょう。