VOL.01!

『ソヴェート映画史---七つの時代』
著者の日本滞在記

by 扇 千 恵

  ネーヤ・ゾールカヤさんとの出会い

 ロシアを代表する映画史家ネーヤ・ゾールカヤさんが10月2日に来日した。
 
彼女と私との出会いは5年前にさかのぼる。論文集『タルコフスキーの世界』(キネマ旬報社刊)を数名で翻訳しようという企画が持ち上がった時、監修者が私に割り当てた論文がネーヤさんの「始まり」と「終わり」の2本だった。1995年9月に刊行されたこの論集を持って私は翌年7月に開かれたモスクワ国際映画祭に参加した。彼女の自宅でおいしいワインをごちそうになりながら、タルコフスキーについてお話を伺った。装丁の美しい日本語版 『タルコフスキーの世界』は大変彼女の気に入り、他国語版とともに今も書架に大切に並べられている。
 それからはモスクワを訪れる度に必ず彼女のお宅にお邪魔するようになった。1997年の9月、ロシア映画社から第17回モスクワ国際児童映画祭審査員の仕事をいただいた私は映画祭の期間中に彼女と会い、ペレストロイカ以降の視点でソヴェート映画史を論じた本を紹介してほしいとお願いした。そのとき渡されたのが450枚に及ぶ彼女の原稿だったのである。気が遠くなりそうな分量 だった。しかし、モスクワという異国の地で魔がさしたのだろうか。私はそれを翻訳したいと申し出て、同行していたロシア映画社社長の山内氏から無理やり出版の約束まで取りつけてしまった。

 持ち帰った原稿は2年間そのままに放って置かれた。本国ロシアでも経済的な理由で出版が遅れているという安心感もあったし、何よりも日本に帰ってみるとやはりその量 に圧倒されて自分の非力を思い知ったからである。
 ところが、ところが、昨年1999年の7月に再度モスクワ映画祭に出かけた私は、彼女のその原稿が新聞のかたちで数回に分けて発行されていること、2001年にはペテルブルグの出版社から刊行されることを知らされた。急がなければならない。世界で最初に出版するお許しを著者からせっかくいただいたのだから。

 

  翻訳の日々、そして

 お尻に火がついた。しかし、翻訳は容易ではなかった。内容は確かにワクワクするほど面 白い。これまでのソヴェート的な視点とは異なった著者独自の映画史が、これまた著者独特の文体で展開されていく。論争を呼ぶとおもわれるところも多々ある。また彼女個人に宛てられた著名な映画人からの手紙なども公開されている。問題は翻訳である。彼女の次から次へとたたみかけるような重層的な文章を、いかにそのリズムを保ちながら日本語に移し変えていくか。自分の訳を何度も何度も読み直しては訂正した。スランプに陥って、全く目にしたくない日々が続いたこともある。時間は刻々と過ぎていった。そしてようやく希望の光が見えてきたこの10月、最後の仕上げのためロシア映画社にお願いして著者のネーヤ・ゾールカヤさんを日本に招待していただいたのである。

★★★

 

  はじめての日本訪問 2つの希望

 1924年生まれのネーヤさんは今も現役の教授として2つの大学で映画史の講義をされている。また映画祭の審査員や講演会の講師をして各国に招待され、ちなみにアメリカには1年に4、5回もいらっしゃるそうだ。しかし、日本は初めてで、もちろん彼女にとってはあこがれの国だった。空港にお迎えした時、まず彼女の希望を尋ねると「できることなら歌舞伎と京都の石庭を見たいの」とおっしゃった。エイゼンシュテインが魅了された歌舞伎とコージンツェフが日本日記にその感動を書き残した龍安寺の石庭をご覧になりたいのだ。

 

  東京・神戸・篠山・京都のネーヤさん

 1つ目の希望は銀座の歌舞伎座でかなえられた。出し物の名は忘れてしまったが、踊りが中心の舞台で獅子の面 をもった女形が蝶々を追いかける。一瞬の間に着物が変わる早変わり。後方から「成駒屋!」と声がかかる。ネーヤさんは喰い入るように観ていた。観劇後、築地魚市場の近くで魚の天ぷらに舌鼓を打ちながら、パンフレットを読んで「勉強」した。兵庫県篠山市にある能楽資料館に案内した時もそうだった。ここには室町時代に作られた作者不詳の能面 を始めとする多くの面や装束、楽器などが展示されている。感動した面持ちでネーヤさんは「恥ずかしい、恥ずかしい」と私に言い始めた。芸術学で博士号をとっておきながら、能のことは殆ど知らない、これは恥ずべきことだという訳である。英語で書かれた能についての書籍を求めてお渡しすると、帰りの車の中で早速「勉強」を始めた。箸の使い方にしても畳での座り方にしてもしかりである。「気を遣わないで、勉強するから」とおっしゃる。実際、11日間の日本滞在が終わるころには箸で上手に食べておられたから驚きだ。
 私の住んでいる兵庫県の三田市にお連れしたあとは近くのホテルに宿泊していただき、9日間の行動を共にした。2つ目の龍安寺の石庭にはいたく心を動かされた様子で、長い間無言のまま何かを感じておられたようだ。彼女は大変精力的で、よく喋り、よく歩く。おまけに一度聞いたことはすべて記憶するという記憶力の持ち主である。同じことを繰り返して私は何度も叱られてしまった。わが家での翻訳の仕事が彼女のおかげで迅速に進んだことは言うまでもない。ただし、もとの原稿に新しい情報が加わり結果 的に私は墓穴を掘ったことになる。しかし、少しでも良いものをめざして努力するほかない。
母親ほど年の違う彼女に負けてはいられないのだ。

 

  三田映画サークルでのレクチャー

 三田と神戸の映画サークルでレクチャーをお願いした。三田ではタルコフスキーの『僕の村は戦場だった』を鑑賞後、この作品を中心にお話をしていただいた。彼女はこの作品がソヴェートではじめて上映された時、その場に居合わせた人である。それ以来タルコフスキーの「追っかけ」となり、この作品によって批評家としてのデビューを果 たした。上映当時の国内での評価から始まり、その後、この作品がたどった運命、そして何よりも監督のタルコフスキーがたどった運命について、彼の他の作品にも触れながら話は進んでいった。サークルの人たちはとても熱心に耳を傾けていた。中には克明にノートをとる人もいた。質問の内容はソヴェート映画を越えて古今東西の映画に及び、ネーヤさんは驚いておられた。そしてこんなにたくさんの質問があったということに随分喜んでおられた。サークルで準備したお茶とお菓子、そしてネーヤさんがおみやげに持ってこられたチョコレートを囲み話は尽きなかったのである。

 


神戸映画サークルでのレクチャー


 神戸ではまずワインで歓迎の乾杯をしたあと、現代ロシアにおける映画状況についての話から始まった。ソヴェート崩壊後、モスフィルムもレンフィルムも解散し監督が海外のプロデューサーを獲得しなければならなくなったことは日本でも知られているが、そのような困難な状況の中で2つの希望的な現象が現れているという話は興味を引いた。まず、隔年開催だったモスクワ映画祭が毎年開かれるようになったことを始めとして、さまざまな映画祭がロシアでどんどん開かれるようになっていること。これはやはり映画界の活性化につながる。そしてもう1つは映画作りを学ぶため映画大学に入学してくる若い人たちが増えていることである。昨年の映画大学監督科での入試の倍率は30倍で、脚本科での倍率は18倍だった。「映画界に入っても、仕事はありませんよ。将来苦労しますよ」という忠告に対して彼らは「分かっている」と答えるそうだ。彼らは携帯電話を持ち、自家用車を持ち、中には運転手付きの青年までいるという。ビジネスで生活の保証を確保した上で彼らは映画界にやってくる。これはまさに新しい映画世代の登場だと言えよう。彼らの中から伝統的、古典的な映画作りをする映画人が生まれることを祈っています、と彼女は話を締めくくった。
 それからの質疑応答が大変だった(これは通訳した者としての感想)。社会主義体制内で自己を貫くために映画人は具体的にどのようにして権力と闘ったか、30年代を支配したといわれる社会主義リアリズムは現実的にどのような影響を映画人に与えたか、監督の芸術家としての自己認識はロシアのどのような風土から生まれたのか、旧ソ連の各共和国における映画作りと、ソ連時代の予算の実情について、等々。午前中にタルコフスキーの『僕の村は戦場だった』をレーザー・ディスクでもう一度観てきました、という方もいた。また、キネマ旬報の『タルコフスキーの世界』の愛読者だという青年が、まさかネーヤさんに会えるとは思わなかったので驚きました、と本を持ってやって来た。

 

  ミハルコフの『シベリアの理髪師』について

 いま日本でも上映中の二キータ・ミハルコフの『シベリアの理髪師』について意見を求められた。「気に入りません」と言った後で、「でも彼のこれまでの作品は好きだし、ミハルコフとは個人的にも仲が良いから、私が日本に来て彼の作品を批判したと分かると具合が悪いかもね」とフォローした上で忌憚のない意見を聞かせて下さった。しかしながら、是非自分の目で観てくださいとつけ加えるのを彼女は忘れなかった。3時間におよぶ話し合いは終わりそうになく、居酒屋に席を変えて夜の11時半まで続けられた。多少疲れたとはいえ、ネーヤさんも満足そうだった。映画好きの人たちと好きな映画について語り明かすほど楽しいことはない。ホテルに向かう車の中でも彼女はサークルの人たちに対する感謝の言葉を繰り返していた。

 

  短かった日本滞在

 あっという間の短い日本滞在だった。お連れしたいところ、お見せしたいものはたくさんあったが殆どかなわなかった。しかし、彼女は終始、注意深く観察しておられたから一から十を知ることができたかも知れないと私は思っている。ロシアに帰ったら、日本旅行記を書くとおっしゃっていたので楽しみである。私の方はといえば、彼女に確認した翻訳上の問題点を整理し補足分を翻訳して、2001年始めにロシア版よりも一足早く出版したいと考えているところだ。

 『ソヴェート映画史---七つの時代』の内容について、次号から少しずつ紹介していきたい。

 

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