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『パパってなに?』 力を持たぬ弱い人間が、真剣に生きる姿
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哀しい物語だ。泥棒稼業から足を洗うことができない男トーリャ、その男とどうしても別れることができない女カーチャ、そして彼女の連れ子で6歳の少年サーニャ。 映画はそのサーニャの目で語られる。 1946年冬、カーチャは凍てつくような荒野の道端でサーニャを生んだ。夫はすでに戦死していた。1952年、2人は列車の中で立派な軍服を着たトーリャと出会う。男としての性的な魅力とオーラを放つトーリャにカーチャはたちまち恋をして彼らは一緒に住むことになる。当時は軍人だというだけで世間の絶大な信用を得られたらしい。前金も払わず、身分証明書を見せることもなしに3人は家族として共同住宅に間借りして住み始めた。しかし、トーリャは軍人などではなく、泥棒だったのだ。共同住宅の全住人をサーカスやコンサートに招待しては、その留守にごっそり品物を頂いて次の町に逃げていく生活のくり返し。真実を知ったカーチャはサーニャを連れてトーリャとは別れようと何度も決心するのだが、愛する気持ちを断ち切ることができずに、ずるずると引っぱられてついていく。 トーリャを演じているウラジーミル・マシコフはデビュー当時、ロシア映画界のセックス・シンボルと言われたほど強引な男の魅力を備えた俳優である(日本では『恋愛小説』が劇場公開され、テレビで『ママ』が紹介されている)。だから「殺気を感じれば相手はひるむ」とけんかの王道を指南する彼にはすごみと真実味があり、母親を奪い、苦しめる相手として憎みながらも、サーニャが頼りになる大人の男であるトーリャに惹かれていくのも観ていて納得がいく。トーリャは6歳のサーニャを決して子供扱いしない。対等な男同士としてつき合う。これはトーリャにそのような配慮があるからというのではなく、彼が自分以外の人間の思惑に関心を持っていないからであろう。彼は確かにカーチャを愛しているのだろうが、だからといって泥棒稼業をやめてカーチャが希望する平和な家庭を築こうという気は無いし、「ソビエト少年であることを証明しろ」などと脅してサーニャに盗みの手伝いをさせたりする。しかしながら、トーリャが根は善人だということがこの物語を哀しいものにしていると私には思えるのだ。彼は人を脅し、盗みを働き、人殺しさえしかねないが、大きな力のもとでは虐げられ抑圧される小さな人間、決して賢くはない人間だから。 この映画の主人公サーニャ。男と女として意味ありげに振舞うトーリャとカーチャの世界からはじき出されそうになった彼は、必死になって2人の間に割り込もうとする。またあるときには母親を突き飛ばしたトーリャに本気でナイフを向けようともする。しかし、愛憎こもごもであるとはいえトーリャの強さに対する彼の憧れは募る一方だ。トーリャに抱かれたサーニャが顔を近づけて、トーリャのオーデコロンの香りを嗅ぐ場面は美しい。 トーリャの胸に彫られたスターリンの入れ墨を見てサーニャが「スターリン?」と尋ねる。 「スターリンだ」 その答えを聴いたサーニャはあたりに誰もいないかと思わず振り返る。 壁に掛かったスターリンの絵を見て、サーニャはふたたび尋ねる。 一緒に住み始めたときからサーニャはトーリャを「パパ」と呼ぶよう母から言いつけられる。しかし、彼にはどうしてもトーリャをパパとは呼べない。なぜなら彼の前には軍服を着た父親の幻が時々現れるからだ。 やがてトーリャが逮捕される。カーチャとサーニャは彼に一目会うため中継監獄を訪ねていく。そこで護送車に移されるトーリャに向かってサーニャは初めて「僕のパパ!」と呼びかけるのだ。走り去る護送車を追いかけながら「パパ!僕たちを見捨てないで!」と叫び、彼は雪の中で転倒する。そのときから父親の幻は現れなくなった。「ぼくが実の父親を裏切ったからだろう」というサーニャのナレーションが聞こえてくる。 パーヴェルは当時の雰囲気を忠実に再現している。50年代のソヴェートを訪れたことのない私にもその感覚が伝わってくる。そこでは言葉に詰まると「偉大なるスターリン」に乾杯した。「スターリンのため」なら泥棒も許された。「スターリン」は庶民にとっては守護神だった、そんな時代。 この映画にはペレストロイカ以降顕著になったセックス・シーンや裸の場面(男性の大衆浴場)、暴力的な場面が確かにある。しかしながら、そのことが決してこの作品を観客の興味に迎合した、流行に媚びを売る商品におとしめていないことが重要な点である。それは恐らく、力を持たぬ弱い人間が、善悪は別として真剣に生きる姿を描いているからだと私は考える。それをソヴェート映画におけるセンチメンタリズムと名づけてもよいだろう。そこには『誓いの休暇』を撮ったパーヴェルの父、グリゴーリイ・チュフライの思想が受け継がれているにちがいない。 実際、両作品には共通する場面がいくつか見られる。例えば、満員列車の連結部で立ったまま2人の主人公が楽しそうに語り合う場面、そして列車のそばで抱き合って最後の別れを交わすあのあまりにも有名な場面。ひとつひとつの場面を取り上げるまでもない。何よりも両作品が「駅」を、「列車」を重要な背景として描かれていることが、そのことを雄弁に語っている。特に、『パパってなに?』では霧の中に現れる列車の場面のなんと美しいことか。カーチャとサーニャが悲しみのどん底で抱き合うそばを大きくカーブしながら列車が通り過ぎる場面のなんと抒情的なことか。 この映画の中で歌われる当時の歌もノスタルジーをかき立てる。マシコフ(トーリャ)が歌う「道」のメロディーが映画を観終えたあともいつまでも私の頭から消えない。 ちなみにこの映画のロシア語原題は<BOP(ヴォール)>、「泥棒」という意味だ。数年前からロシア国内で流行しているジョークを思い出した。 「今、ロシアではみんな何をしているんだい?」 (ロシア映画研究者) 2000.12.9
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監督: パーヴェル・チュフライ ◎『パパってなに?』は、2000年12月16日から大阪の国名小劇場/天六ホクテンザ2で公開されます。 |
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